愛は情をみちびく
あたたかい愛は、心から心に流れながら、優しく世を清めて行きます。
ある時、私は大勢の人が集まる場所で早朝から、忙しく動いていました。
ある聖なるお仕事の準備のため、たくさんの方が集まり、まだ夜が明ける前から、そこには心のこもった清掃をしている方々がおられました。
私も清掃をしながら、でも他にもやることがあって、私は小走りにある建物の入り口を目指していました。
その日は、夜中に雨が降ったようで、階段も通路も水と泥でドロドロでした。
私はすべらないように気をつけて、用事がある建物の入り口につくと、ちょうどその入り口をお掃除していた方がいらっしゃった事に気づきました。
その女性は、なんとドロドロの床に自ら膝をつき、他の方が通りやすいようにでしょうね。その泥を汗をかきながらふいておられたのです。
一生懸命、働いておられる方に申し訳なく、ちょうど入りたい入り口の、すのこを上げてふいておられたので、私はお部屋に入るのを一瞬躊躇しましたが、やはり時間がなかったので、お邪魔にならないように、私は遠くで靴をぬぎ、自分の靴を遠くによけて「ごめんさい、失礼します。」とお互いににこっと会釈してお部屋に入れていただきました。
しばらくして、私はそのお部屋での用事を済ませ、見てみるとさっきまで入り口をふいておられた方は、すでに遠くまで進んでおられ、玄関はピカピカにすっきりしていて、お姿は見えなくなっていました。
見違えるように綺麗になった玄関。
ふと見て、私はびっくりしました。
さっきお邪魔にならないように、遠くにぬいできたはずの、私の靴が入り口に、出てきたらすぐはけるように、綺麗に揃えて目の前にありました。
この中で仕事して出てくるであろう私が、出てきた時にすっと履ける位置に、綺麗に揃えて置いて下さっていました。
さりげなくも、なんてあたたかい真心でしょう。
無言の中にも、大切にしてくださる思いやりがそこに、灯されていました。
自分も忙しくとも、誰かが動きやすいよう、誰かの為になるよう、そっと現して下さった真心は、私の心をあたため、そして清めて下さいました。
「美しい心」とは、こんなさりげない優しさから始まると・・。
「大切なものは目にみえない」
でも、見えるように現すこともできるのですね。
あたたかい愛は、人間界を優しく、美しくし、清めてゆきます
愛は、エネルギーとなり、魂には「光」となって私達 人間世界をお清めしてゆきます。
私達が、お人とふれあいそばにいる中で、「あたたかい」と感じるのは、まずは、「愛」よりも「情」なのかもしれません。
苦しい時に、そばにいてくれること。助けてくれること、話をきいてくれること。何があっても、かけつけてくれること。一緒に泣いてくれる人。
それは、いのちをあたためてくれるかけがえのないぬくもりです。
あたたかく、優しく、それはいのちをほっと休ませてくれ、絆を深めてくれるのです。
しかし、実は宇宙から見ると「情」と「愛」は違うものなのです。
「愛」が「情」を使って現れることがありますが、情は愛につながっていないと、迷い道の原因にもなります。
「情」は、「愛」へとつながり、愛に導かれてゆくことにより、私達を「神性(ハイヤーセルフ)」へと、回帰させてくれる神聖な『ぬくもり』となるのです。
これに気づかず、『情』だけで動くと、人間界は情に流され、愛ではなく執着となり、我欲を満たすもの、自分の空洞をハイヤーセルフの代わりに埋めようとするものとなり、「ほしい」「もらえない」「もっとこうしてほしい」「なんでこうしてくれないの」と、エゴとエゴがぶつかりあう次元に居続けます。
「愛」には神にいたる道 という『進化』がそこにありますが、「情」は時に、かわいそうだから、ほっとけないからと、甘えとカルマの中に人をつなぎとめ、依存を育ててしまう事もあります。
「情」は「愛」に導かれなければ、甘えと依存につまずいてしまいますね。
しかし、情のあたたかみは、嬉しいものです。
そのあたたかさと優しさの中に、私達は神の優しさとぬくもりを垣間見ます。
そのぬくもりに、自分もそうありたいと愛を学び始める人は、ぬくもりが宇宙への扉になり始めるのです。
情からのあたたかみには、愛に育てるエレガンスがいります。
やりすぎても、だめだし、ひきすぎてもいけない。
相手も自分も、美しく成長できる宇宙の心を大切にしましょう。