楽園からの手紙~2018(11)カヴェヘヴェヘ
カヴェヘヴェヘは、私達がいた本当にすぐそばにありました。
ダイヤモンドヘッドも見えます。
とてもパワフルな海です。
ゆっくり歩きながら、海水と真水が出合うポイント、カヴェヘヴェヘへ。
私達は海沿いに歩いて、そのポイントを探します。
秘境ではなく、それはスッと現代のワイキキに寄り添って、そこにあり、ホテルやレストランのすぐそばに、ありました。
かつて古代ハワイアンが癒された海だとは、一見気づかないほど、その海は、変わらずにそこにいてくれます。
細い海沿いの道を歩いていくと、サーフボードをもって海に向かっていく人や、ジョギングをしている人々にも出合い、足早に通りすぎていきます。
それほど迷わずに、私達はカヴェヘヴェヘを見つけました。
現代では、さりげなく立っている看板だけが、目印です。
静かに、神聖な気持ちになって、私は裸足になり、浜辺へと歩いてゆきました。
裸足になって浜辺に立った私は、なるほどと頷きました。
すべての場所が本来そうであるといえますが、
現代の聖地ほど、多次元が際立つ場所はないかもしれません。
ホテルでの朝食をすませた人が、海に散歩にこれるくらい、すぐそばにあるからこそ、神聖さも見えづらいかもしれません。
だから、さまざまな優しさを海は、現してくれます。
この海にボードをすべらせサーフィンする人にはサーフィンを楽しませてくれる海に、
ジョギングをする人には、快適な朝の海に見えます。
そして、カヴェヘヴェヘの神聖さを訪ねた私達には、古代ハワイアンが連面と祈りを捧げ続けた癒しの海に見えます。
同じ海に、サーフィン、ジョギング、散歩、祈りという目的が同時に交差し、
それぞれの海を体験しています。
こちらが差し出した意識で、選んだ海の次元の優しさを、私達が体験するからです。
私は神聖な気持ちになり、まずは自分の心をやわらかくして、海へ近づいてゆきました。
少しパワフルな波は、大きな音をたてて、寄せては返して行きます。
静かに静かに、私は心を鎮め、
日常そこにある海ではなく、癒しの聖地としての「カヴェヘヴェヘ」の神聖なオーラに、波動の焦点を合わせてゆきました。
私は目に見える「カヴェヘヴェヘ」のビーチに立ち、
そして、目に見える以上の 目に見えない さらに奥の次元の「カヴェヘヴェヘ」に接触できますよう、祈りを捧げていました。
すべて、目に見える現実には、目に見えない本質としての「霊的部分」があるのです。
霊的に、この海の霊的なカヴェヘヴェヘに接触したのを感じて、私はこの海の守護者に祈りを捧げました。
そして、目からも自分のハートに この神聖な海の波動を注ぎたいと、そっと目をあけて海を見ました。
その愛の次元のカヴェヘヴェヘが、ゆっくりと 輝いて見えてきました。
ハワイアンの森林浴をした時のように海の水にも、マナ(グレース)が豊かに流れていました。
霊的にカヴェヘヴェヘのグレースに接触しながら、目をあけていたから
それは美しい光景が 実は広がっていました。
海の水の内側の領域が、神聖な神様の世界の領域になっていました。まるでハワイアンな竜宮世界でしょうか。
波がよせて、ひいていくその瞬間。
波がひいて、水がめくれて立ち上がる時に、水面はスクリーンになって、たくさんのビジョンとメッセージが現れていました。
この聖なる海の慈しみが、病になったたくさんの方々の、病の原因になっている考え方や罪悪感や傷ついた気持ちに寄り添って、浄化してくれ、いのちを甦らせてくれたのですね。
ゆるしのビーチと言われるグレースビーチ、カヴェヘヴェヘ。
この海の愛の光に出会ったならば、人はもう 本当は ゆるされているのです。
大いなる世界のいつくしみは、常に私達を裁いてなどいません。
天はせめていないし、私達を罰してもいないのです。
やさしく包み続け、癒し続け、愛してくれます。
天が恩恵を出ししぶったり、
恩寵を あげる人とあげない人を選んだりしない。
すべての人の中を、神の恩恵はいつでも、どんな時でも あたたかく、豊かに、優しく、流れ続けています。
何度ころんでも、
何度、間違っても、
私達はいのちの世界の優しさに、ゆるされ続けているのです。
ただ・・。
ただ、ゆるしていないのは自分だけ。
私達が私達自身を罰してしまう時があるのです。
天ではなく、私達自身が。
自分が嫌いで、自分を罰して、自分をゆるせない、
その心を洗うとき、再びその人の中を宇宙のバイタルフォース(グレース)は流れ、
いのちは癒されて行きます。
例えば、ヒーラーが癒しを行う時は、その人自身が自分をゆるせるように助けていくのです。
エネルギーが流れるには、一方的では流れないから、必ずご本人の「気づき」が必要なんですね。
まだまだ、カヴェヘヴェヘの海は、旅人のいろんな事を語りかけ、ビジョンを見せて下さり、メッセージをもたらして下さいました。
癒しの海は、私に饒舌でした。
だから、私はそのメッセージをしっかり受けとれるように、すぐそばに座れそうな場所を探して、
そっと腰かけ、受け取り続けます。
人には皆、生まれた目的があり、何かを成し遂げたいと願って生まれてきます。
皆、生まれる前に、自分がいのちをどう使わせて頂くか、「自分が大切にしたいこと」を選んでいます。
その魂の約束を、私達は肉体に宿った瞬間に顕在意識では忘れてしまいます。
改めて行う「選択」が、魂を進化させるからです。
いったん忘れたものを、再び取り戻す事で、自分の意識の分離を、優しく「ひとつ」に回帰させてゆくのです。
ひとつ自分の中で 分離が癒されるごとに、私達の波動はあがり、大いなる源に近づいて、優しくなっていけるから。
ただ、表面では魂が約束した事は忘れてしまいます。
けれど、その選択を私達の意識は、 潜在的には本当は覚えているのです。
例えば、進化成長の為に『愛を学ぶ」事を、選んだ魂は、
かつていのちの世界で愛に出逢い、愛に感動して、その優しさにふれた事があるのです。
いつか、その天のあたたかさに泣いた事があるのです。
だから、「忘れない。忘れたくない。垣間見るだけではなくて、その世界が自分の世界になれるよう、自分を成長させたいと魂が祈るようになるのです。
だから、自分もその波動の魂を表したいと、生まれる前に、そこに至る道を選び、愛を選ぶ為の課題を選択してきます。
だから、自分の中のゆるしきれていない部分。愛を遮断している考え方を手放して、ゆるし、愛になる為に愛を学べる場所、瞬間を人生に用意してくるのです。
『ゆるせない』次元 から『ゆるしきった幸せ』な次元へと、次元上昇する経験を、自らの人生においています。
それが、例えば 親との確執だったり、離婚だったりするのです。
それは不運でも、不幸でもなく、
魂が求めた優しい次元に向かう扉だったのですね。
だから人生には、何度でも何度でも、ゆるしのチャンス、光への扉がやってきます。
でも、私達は忘れているから、それが、自分が行きたい世界にいける扉だと気づけないのです。
だから、
本当は選べる事に気づけずに、
見た目の人間関係の言動だけがすべてに見えて、
ゆるせない、絶対ゆるせない、絶対ゆるさないと固く心の扉を閉めてしまいます。
でも、その人の魂は、
愛を表すために、私は生まれた、と、かつて知った魂の優しさを、忘れたくないと誓った気持ちを覚えています。
けっして忘れたりしない。
だから、いのちの生命力は、愛する方へ、ゆるす方へ、あたたかい方へと流れて行きます。
魂はゆるしたくてたまらない、優しくしたくてたまらない。
でも、それを忘れた表面意識の私達は、「ゆるさない」「ゆるせない」と、頑なになったり、いのちの奥の本音と逆方向にハンドルをきります。
自分の本来の流れに反発してしまうのです。
また、愛する為に出会ったのに、
それに気づかず、愛する人を裏切ってしまったり、さみしい思いをさせてしまったり。
でも、魂は愛があるのに、それを使わないとその潜在意識の罪悪感が、
自分を縛り、心を固まらせ、自分をせめて生命力が流れなくしてしまうのです。
自分か自分をゆるせなくなります。
病も、運命の停滞も、不幸にみえる事も、原因はひとつなのです。
本当の自分への抵抗です。
自分が自分をゆるし、抵抗が取り除かれて
内なる流れと、外側の流れの方向が一致した時に、癒しは起こるのです。
ふと、気づくと
私のすぐ後ろで、黒人の男性が、私と同じように座って目を閉じて、瞑想をしていました。
他に瞑想している人はいないのに、瞑想している私を見て、ここは瞑想する場所だと思ったのでしょうか?
リゾート風ではなく、きちんとした服を着ていらしたのに、わざわざ裸足になって、浜辺まで降りてこられたのでしょう。
不思議なご縁ですね。
そう、人は皆 言葉を越えて
感じる力を持っています。
皆、自分の中に流れている美しいものを知っているんですね。