自由という贈り物
私が感動し続けた天の愛は、あたたかく優しい世界でした。
その世界はいつも、優しい光がいっぱいで、幸せ、安らぎ、祝福があふれる優しい宇宙でありました。
私たちの中にある神様と、ぴたりと一致する場所を見つける時。
これは、私のチャネルが開いたばかりの初期の頃のお話です。
チャネルがひらいた直後、私はまだ眠りが深くて、どう動けばいいのか、どういうものなのか、まったくわかっておらず戸惑っていました。
その頃、目にみえない世界の声をきく方々や感じる方々が口々におっしゃっている言葉がありました。
『神にやらされている』
『神に言わされている』
そういう言葉は当時、霊的な世界の表現にはよくあるものでした。
でも、私は、その言葉をお聞きする度に何故か胸がきゅんと苦しくなっていました。なんでなのだろう?と理由がわからず戸惑っていました。
けれど、聖母意識とのふれあいが重なる内に少しずつ、その理由を理解してゆきました。
私がみていた宇宙は、いつも温かく、そこに無理強いがなかったのです。子供の頃、きっと誰もが一度は読んだことがあると思いますが、イソップ童話の『北風と太陽』のお話がありますが、私が見つめ続け、感動し続けた天の愛は、このお話の中の太陽さんのお姿そのものだったのです。
真理の世界をわかりやすく表現する為に、たびたび引用されるこのお話に私はいつも深く頷いてしまいます。
それは、私が見続けていた聖なる母性の優しさそのものだったからです。
聖母意識は、私に無理強いしたり、恐怖を感じさせて導くという事が一度もありませんでした。
初めて声をきいたその時でさえ、
『あなたは生まれる前に私と手を繋ぎ、愛を伝える事を魂の世界で約束してきました。今、あなたの時がきましたが、生まれる前のお約束通り、引き受けて下さいますか?』と、生まれる前に、私が選んだことにさえ、再び選択させてくれたのです。
聖なる母性の世界に、無理強いはなく、その世界はいつも、幸せ、安らぎ、そして美しい祝福の音色で溢れていたのです。
ノーと言える自由
私はチャネルが開いた日を、新しい人生が生まれた日として、『魂の誕生日』と呼んでいますが、この魂の誕生日を迎えた頃、天の愛はまず私に素晴らしいものを与えて下さったのです。
それは『自由』
『自由意志』でした。
天はけっして私を縛ろうとはなさいませんでした。ただただ、いのちの中から湧きあがってくるあたたかい響きと納得によって導き、感性によって成長を促してくれたのです。
聖なる母性は常に、私の ハートにこう伝えてきました。
『 私がお伝えした事で、あなたが違うと思ったものは、必ず立ち止まり、どうぞご遠慮なく『ノー』とおっしゃってください。
私は、あなたの真心にふれたいのです。
ですから、天の言葉にふれる時は、それを聞いてあなたの胸が優しくなれたり、勇気がわいたり、納得する。
例えば、そんなふうに愛があなたの心を納得させた時にだけ、それを真理として受け入れてください。それでよろしいのですよ。』
いつの時も、キラキラと微笑みが広がるように包まれながら、自由を与えてくれる、それが聖母意識でした。
天はまず、私にいつでもいいえという事ができる自由をお与え下さったのでした。
いつの時も。
『あなたが感じた事を信じなさい。あなたの心を信じなさい。』
そう促され、応援されてゆきます。
そんな天の愛に完全に甘えた私は、感じたままに自分の心を遠慮なく伝えていました。
天の言葉に対し、『私はそうは思いません。』『もっとこうした方が、早いんじゃないですか?』『それはおかしいです。』と。
そんな私のエゴいっぱいの我が儘も、未熟さ以外の何者でもないコメントも、すべて『あなたのその心を信じなさい。どうぞ自由にお心のままになさってください。』と、いつも認められ、あたたかい微笑みと共に包まれてしまうのです。
でも、人間のエゴって本当に勝手なもので、支配されたり、縛られると苦しいのに、逆に百パーセント完全に自由にされると不安になって物足りなくなってくるのです。
「あなたはそういうけど、正しい答えはこれです!」と言ってもらいたくなるんですね。
でも、聖なる母性はけっしてそれをなさいませんでした。
どんな未熟な心にも、寄り添って下さるのです。
私自身のいのちが完全に納得し、天の心と、私の心がぴたりと溶け合い、納得したその時だけ、それを真理として受け入れてくださいと言いました。
天のメッセージは、強制でも、命令でもありませんでした。紡ぎだされてくるそれは、いつも優しいこちらを大切にして下さる思いやりにあふれた協調でありました。
メッセージを届けても、そのメッセージに私達自身が縛られることを天は望んでいなかったのです。
このような感じでしたので、最初は私と聖母の心がはっきりと別れていました。
天は『お行きなさい』といい、私は(お恥ずかしいですが)
行きたくないという。天は『こうしてください』という。私はもっと別な方法がいいという。
そんなくりかえしでした。
ある時、私の知人が悲しみにくれ窮地に立たされた事がありました。
天は『今は何もいってはなりません。今はそっと見守る時です。そっとしていてあげなさい。』と言い、私は彼女の激しい消沈ぶりがかわいそうになっていて、『何故ですか?あんなに苦しんでいるのに!今こそ、一言救いになるようなアドバイスが必要ではありませんか?』
しかし、聖母はキラキラキラ。
『いいえ』と。
私はちょっぴり不満。
私の心には彼女に渡してあげられるアドバイスが、ありましたから。
でも・・。と不満が心に横たわりながら、それでも実は自分で決めて、自分で行動する事に不安になっていて、動こうとはしない私を見透かして、聖母がこういいました。
『不満をそのままにしてはなりません。
あなたがこうと感じた事があるなら、そのあなたの気持ちを大切にする勇気をお持ちなさい。』
『あなたが、感じるその事を大切にし、実践する勇気をお持ちなさい。
あなたが感じるどんな小さなウェーブも立ち止まり、ふりむいて、その小さき声に耳を傾けてあげるのです。
立ち止まり、自分の心にふりむいてあげましょう。ちがうと感じるなら、ちがうと感じていいのですよ。
ただ必ず、心で思うだけではなく、あなたが信じたことを繰り返しやってみることです。そうすれば、あなたの中の叡知があなたを導いて、真実を必ず見せてくれるでしょう。』
そう、いつも優しく背中を押されるのです。
例えば聖母の言葉と違っていてもいい、ただし自分が胸で感じたことは繰り返し実践して、やってみることですよと、聖母がいいました。
言葉だけで、そうは思わない、絶対こっちと思っていても、思っているだけでは自分の中にとじ込もっているだけなんです。
でもやってみて、自分の信じたことを行動することによって、エネルギーが放出され、自分が掴んでいる波動が、どういうものなのかが、結果になって現れます。
そうして、私達は愛を学べるのだと、導かれたのです。
ですから、天と私の心が、まっぷたつに割れた場合。私はまずは自分の意見の方を実行してみました。
これは絶対正しい、間違ってないと確信をもち、堂々と自信をもってまずは自分の思い通りに動いてみることにしたのです。
絶対、こっちの方が優しいわ。
絶対、こちらの方が喜ばれるわ。
そう信じていつも自信満々にやってみるのですが結果、必ず垣間見たものは、私の意見の正確さではなく、天の言葉の正確さの方でした。
やってみると、動いてみると、聖母の言葉が活きてきて、見えてくるのです。
やってみると、はっきりわかりました。何故あの時はゴーサインで、何故この時はストップだったのか。
何故この方にはイエスで、何故この方にはストップなのか。
一見理不尽にみえ、整合性がないように見えた聖母の言葉たちは、確実にひとつのあたたかい真理がすべてにおいて貫かれ、光輝いてそこにあることが理解されてくるのです。
天の答えは気まぐれではなく、確実にその時出会っている魂を救い上げ、応急処置ではなく、真にあたたかく愛し大事にする言葉だったのです。
木を見て森を見ずとは、私の為の言葉でした。目の前のものしか見えていない私に対し、天の愛はいつも全体を、さらには永遠をも見つめている、大きな包容力だったのです。
体験すると、まざまざと見えてしまう自分の無知さ、傲慢さ。
これがベースの導きは愛につながらず、依存になってしまいます。
天の言葉は、今こそ言ってあげなければならない時があり、同時に今こそ言ってはならない事があること。
その微妙なさじ加減が、ひとつ転ぶたび、嫌な思いをするたび、間違えるたび、苦い涙と共に私は理解してゆきました。
いつも、やってみると、いつも的確なのは、聖母の言葉の方でした。私はだんだんそれを理解していきましたが、そうなると今度は何かがひっかかりモヤモヤしていても、「正しいのは天の方なんだ。」と、自分の内なる判断力を失って、納得はしていないのに、目を閉じて聖母に従おうとしてしまう自分がいました。
しかし、そんな時は決まって天は流れをとめ、その実はモヤモヤしている私のこころを示し、「その心の声をききなさい。自分の心に従いなさい。」と、ノーという自由、立ち止まる自由を与えてくれました。
その、モヤモヤには意味があり、何かが心にひっかかるには、そこに「わたしの気持ち」が必ずあるんです。そこに気づいてないけど、成長したがっている私の心がある。
小さなモヤモヤも大事にその声を聞いて、少しのひっかかりも丁寧にふりむいてその声をきく。
それをくりかえした事により、ひっかかりは解消し素直になり、しがらみは気づきに、モヤモヤは明瞭な視界になり、しだいに私の中は気づきと体験により波動をあげて、日毎に澄んでゆきました。
汚れて曇り視界が悪かったガラス窓をガラスクリーナーでピカピカにした感じです。霊性の視界がクリアになり、世界が明るくみえました。
そのくりかえしで、ふと気づいたら、だんだん私の中が天とピントがあうようになり、「同時」に答えが生まれるようになったのです。
天が『こうしてほしい』という御心と、私が「こうしたい」と思う思いとが、同時にぴったりと一致して生まれるようになり、天の心と、私の心がぴたりと同時に満ちて、重なるようになっていました。
言葉を越えて、わかるのです。
天の心と私の神性とが、ぴたりと一致し始めました。
これが、『大いなる自己』これが『ハイヤーセルフ』というものなんですね。宇宙とつながっている自分の心です。
これが、あたたかい叡知の場所なのですね。誰もの中にあり、私の中にもあった内なる神の光。私の本心。
私は心の中にあった、どんな小さな疑いや迷いを見逃さず、ひとつひとつ向き合って、感じて、気づいて、実践し、自らが納得する答えを見つけることをやり続けました。
そうやって、自分の心の声を聞き、その時も自分が一番いいと思えることを、実際にやってみることで、自分の心の中の霧を晴らしていったのです。
自由という教科書を開いた時、私達は自らの内なる神を見いだします。
私達には、悩んだり、傷ついたり、日常使いしている『心』というものがあります。
でも、その心のさらに奥には誰しも宇宙の心と、神様と、ぴたりと響きあい、一致している所があります。そこは、私の中にも、あなたの中にもあるのです。
でも、その内なる響きは、悩んでいる時に誰かに依存して、答えを外に探し続けていると、目覚めることができません。
聖母意識は初期の頃、よく私にいっていました。
『私はすべてを教えませんから、自分で選び、自分で答えを見つけてください。』
といいました。
あまえんぼさんのマインドには、ちょっぴりさみしく厳しいと、感じたこの聖母の言葉は、私にとってその後最高の美しい自由になりました。
自分を信じられるようになっていくからです。
体験と実践は、本当に偉大な教師でした。
もしあなたが、迷っていたり、何が正しいかわからなくなっていたら、頭の中だけで思いや考えをグルグル巡らせているより、まず、自分の中で一番いいと思えるものをやってみると、必ず答えや気づきがもたらされます。
自由は、らくちんなようで実に魂の成熟さを求められる学びですね。
でも、それだけの価値のある学びです。
現実はエネルギーに対して、けっして嘘をつきません。
とびこんで、ぶつかって泣いてもその経験から素晴らしい気づきがあれば、その度に自分の波動はあがり続けて、内なる叡知にピントがあいます。
とびこんでみて、見つけた答えはいつも、天の心と一致していました。この一つ一つの経験をくりかえす内に、しだいに歪みが修正され、曇りがとれて、内なる神にピントがびたりとあい始めます。
自分のなかの違和感、モヤモヤを見てみぬふりをしないで、ふりむいて、どこがひっかかり、何がおかしいかを つきつめてつきつめて、すーっと奥へ進んでゆくと、そこには、天のご意志とひとつに寄り添っている自分が必ずいるのですね。
よく「 神様にいわれたから、自分はやりたくないけど、やらなくちゃならない 」というように、天の心と自分の心との分離を体験するのは、自分が自分の神性ではなく、自我の方にかたよっている時なのですね。
神様を外にのみ見ている時は、神様と自分が離れていますから、神様のご意志と自分の意志が真っ二つに分離するのです。
これは、真っ二つに離れた分だけ、自分が自分の神性から離れているということなんです。
自分が自分の中の一番純粋な部分を見つけますと、私達の霊性は天の愛と優しくひとつに一致していることに気がつきます。
自分の不調和、自分のモヤモヤ、自分の自我をまるでタケノコの皮をむくようにむいてむいてゆくと、私達は天の心と一致している自分の心を見つけます。
それを発掘するのに、よく効くのが『納得する』ということなんです。
この経験を重ねた事によって、私の場合も、天の心と私の心が真っ二つに別れることが自然に消えて行きました。
私が心からそうしたいと思うことと、天がそうしてほしいという事が一致し始めました。
だから、私が本当にしたいことが天が私に望んでくださることと同じになっているように、つながりを取り戻していったのです。
神様は自分の内に存在します。
もちろん、あなたの中にもね。
誰でも自分を信じ始めると、天の流れと一致していくのです。