安曇野記(2)~石に刻まれた記憶
石に刻んだメッセージは、私達の「肌」が受信します。頭は忘れていても、肌が覚えていて反応します。
安曇野に呼ばれ、聖母の心を受信しようと、内なるアンテナに集中していると、ふと思い出すようにして心に、流れ込んできた情報がありました。
それは、地球の失われた歴史の中に、女神の文明があったという記憶です。
その太古の高度な文明は、もう教科書にものらない程、記憶から薄れてしまったけれど、その古い懐かしい記憶は、私達の細胞の中に刻まれています。
その時代は、けっして忘れたくない愛の真理を、石に刻んだのだそうです。
地球の原始的な祭祀は、石をご神体とするアミニズムがあり、石に神仏を彫り上げたり、或いは石そのものを神さまのお姿としてお祭りする信仰は、その遥かな時代の名残であり、
石に文字や、意味のある模様を刻む 神の歴史は、古代エジプトなどを始め、世界中に存在しています。大切な次元上昇時の為のコードを、石に刻んでいるのです。
これは、私達が忘れてしまった遥かな記憶の名残であり、地球が次元を変えてゆく集合的に次元上昇するチャンスが来たその時に、絶対忘れたくないやさしい真理を石に刻んで、あたたかいお手紙を記すように、未来に託したのでしょうね。
不思議なもので、何が書いてあるのか、それは何かが頭ではわからなくても、石に刻まれたものは、私達の「肌」の細胞が覚えていて、大切な時に(大事な意味で)鳥肌がたったりして、肌で甦ります。
かつて、地球には、偉大な女神の心から愛を学んで、恩恵を受けていた古の暮らしがあったそうです。
その時代は、地球に住む一人一人が、自分の中にあたたかい心があり、それは始源の神の分けみたまだと知っていて、自分の中に優しい神さまの光が灯っていると理解していました。
そのあたたかい内なる神さまと、宇宙の神さまはつながっていて、そこから生きる為に必要なすべての恩恵を受けとることができました。
しかも、その内なる場所は、すべての人と、動物と、植物と、大地と、あらゆる現象とも、つながっていました。
一人一人が、内なる神さまを感じていて、その大いなる自己を大切にしていました。
そして、体はその内なる神さまが宿る神殿なので、大切に扱い、内なる神を軸にやさしくお手入れし、波動を高く保っていました。
病になりたくないから、などの恐怖からではなくて、内なる神性を尊む心から、体を健康に保つ暮らしが営まれていました。
宇宙とつながって、あたたかい愛があふれだす内なる源から、生き方も、暮らしも、生まれ、文明が生まれました。
その時は、人間ばかりではなく、草も、花も、動物たちも恩恵を受け、調和していたそうです。
しかし、人の心が、内なる神ではなく、光と影でいえば、影に焦点をあて、自分は光であることを忘れ始めた時に、私達のディセンション(退化・次元降下)が始まりました。拡大ではなく、縮小が起こったのです。
「すべてはひとつ」から生きていた愛の時代がありました。
地球に天国が当たり前のように、具現化されていた時代は、私達は自分といえば、それはすべてとつながっている「内なる神」の自分の事を さしていたのです。
そこから、創造されていた太古の愛の文明は、母なる文明と呼ばれ、人は皆、自分たちがセパレーツで存在しておらず、他の生命と関わりあい、つながっていることを知っていました。
一人一人が、自分の中にあるあたたかい心が生まれる中心に、自分の大いなる自己があると知っていて、自らの 内に 内に と深く入ってゆくと、そこには あらゆるいのちとぴたりと一致しているワンネスがあるのです。
私達は、外側ではなく、自らの内側に深く深く入ってゆくと、すべての人の純粋意識と出会い、宇宙意識と出会うのです。
私達が、ひとりに一つずつ与えられた心の内側に何があるのか、その深みにはあたたかい聖母意識があるのです。
やがて、人類は自分の心の内に深く深く潜って探求し、あたたかさを取り戻すごとに、だったひとつの愛の意識を見いだします。
宇宙の心と一致し、すべての人の内なる神の光を一致し、地球の生命リズムと一致するワンネス。
やがて、人類は、自らの心の内側ですべての人の優しさと、出会います。偉大な神様を見いだします。
人類は自らの内にある たったひとつのあたたかい愛の意識、たったひとつのあたたかいみ心に集う時がやってきます。
自分の本心に出会うことは、すべての人とつながる事なのです。
すべての人、すべてのいのちと、私達は響きあっている、その事に安らぎを感じ、慈しみといのちへのいとおしさを尊む、そこから生きた時代が、女神の文明でした。
地球から出土する古い神の姿ほど、女神が多く、乳房などの女神のボディのフォルムや、赤ちゃんを抱く姿や出産する女神の像が多く、そこには、愛を教えてくれる優しい母なる女神の姿がそっと 浮き彫りになってきます。
愛の時代の訪れは、いつも普遍的なこの聖なる母性という門を通して、誕生するのです。
その記憶は、地球上の石に刻まれ、今でも、石の信仰がメッセージしてきます。
愛と調和のオーラで、守護する世界
安曇野の夢を見たのち、エネルギーの受信を試みた私は、脳裏にひとつの優しいビジョンが映りはじめました、
それは、特に安曇野に多く見られる神さまのお姿で、道祖神と呼ばれる、石に刻まれた 心あたたまる神さまのお姿でした。
安曇野には、石神さまと呼ばれる塞ノ神信仰があります。
石に刻まれた優しい、あたたかい神さまの想い。
私は、そのビジョンを脳裏に頂きながら、宇宙のあたたかさ、地球の優しさをかみしめていました。
安曇野では、とても心なごむ神様のお姿と出会います。
道祖神と呼ばれる石に刻まれた石神さまで、塞(さえ)の神とも言われています。「さえ」とは「さえぎる」の意で、本来はたとえば疫病や災いなど、苦しみのもとが集落に入り込んでこないように、集落の境目や、スペースの境界にそっと祀られている守護神様です。
様々なお姿がありますが、とても多いのは、男女の夫婦神様が微笑みあい、仲よく手をとりあい、睦みあうあたたかく微笑ましいお姿の夫婦神様が、集落や土地の境界線にそっと祀られています。
安曇野は、この道祖神と呼ばれる神さまの宝庫と言われているそうですね。
脳裏に浮かんできた、この神さまたちのお姿に、今、私達宛ての必要なメッセージをそれだけで、感じ取れるような気がしました。
塞の神(災いを遮る神)でありながら、この安らぎの佇まい。
災いがこないようにと祈るお姿が、「災いよ、あっちへいけ!こっちへくるな!」と排除したり、緊迫して威嚇する姿ではなく、
そこにあるのは、手をとりあい、仲良しの調和と和合の姿を置いているのです。
塞ノ神である道祖神の石神は、集落、峠、土地の境界線を守り、災いがそこから入らないように お守りくださる神。
その神様が仲良しで微笑みあう、和合した夫婦神様なのは、そこにこめられた あたたかい神様の想いがあるのです。
セパレーツ感覚。
災いは、分離感覚から始まるのです。
戦いも、侵略も、奪いあいも、ケンカも、分離のラインから生まれます。
集落や、土地の境界線には、分離があるわけです。
ここはうちの境界、ここからがあなたの境界。それを分ける境界線。
それが、集落の違い、街の違い、国の違いになりますね。
違うとなると、摩擦も生まれ、争いや災いを呼ぶこともあります。
それをふせぐのに、おいてあるのは、戦いの神さまではなく、微笑みあい、手をとりあう夫婦神。
それは、別々のものもひとつになれるという信仰。
たとえば、私の村、あなたの村という境界線がある時、互いの村は違うけど、夫婦が愛しあい、信じあい、和合してゆくように、信じあい、手をとりあいましょうと、相手に優しい敬愛を送るのですね。
戦い、くるな!あっちへいけ!と災いを倒し、排除するのではなく、
あたたかい愛のエネルギー、敬愛のエネルギー、睦みあうエネルギー、仲良しで和合している、あたたかい愛のオーラを放射して、そこにある不調和を優しくお清めし、和合させて、
災いのもととなる業を、やさしくやさしく溶かしてゆくのです。
愛によってほどき、そこに冷たいエネルギーがあるなら、神さまのやさしさで あたたかくあたたかく溶かして、和合してゆくのです。
災いを、あたたかい愛のオーラで、包み込み、消してくださるのです。
この安らぎのお守りの姿に、日本という国を、「大和」と呼べることの意味が頷けました。
この安らぎのお守りの波動、
これは、聖母の波動なんですね。