安曇野記(3)~境界線を尊む

 

 

 

人を大切にする為に、愛が育つ環境に必要なこと。

 

 

 

 

安曇野に行き、境界を守るあたたかい神様のお姿を見て、受けとめて、深く 胸に感じるものがありました。

 

 

その優しさを見て、ふとチャネルが開いた当時(1986年頃)に、聖母から頂いた学びを思い出しました。

 

 

1986年頃、チャネルが開いたばかりの頃、私は非常に霊的感性が冴えわたっていて、まだバランスがとれていなかったので、学び初めの頃がありました。

 

 

 

黙っていても、いろんな情報が私に流れ込んできていました。

 

今てはとてもお恥ずかしい体験ですが、魂に目覚めたての当時は、スピリチュアリティのエレガンスも、次元も霊格も何もわかっていませんでした。

 

 

 

ですから、見えたもの、感じたことをそのまま口にしていたのです。

「こういうものが、見えますよ」

 

「あら、ケンカしてきたんですか?オーラに出てますよ。」

 

「あら、◯◯はじめられたんですか?」

 

 

 

 

一目みて、その方の心の中にあるものが、わかってくるのです。

 

 

 

その人の足音、ノックの音、電話から聞こえる「もしもし・・」の第一声で、その人のエネルギー状態が明確にわかりました。

 

だから、それをそのまま口にしていました。

 

 

すると、それはいわゆる当たってゆくので、皆さんびっくりなさいます。

 

 

 

その人が口にしてない情報、隠していた事が、私の口から溢れ出し、しかもそれは当たってゆくので、周りはとても驚いていました。

 

 

 

 

それを、面白がる方もいましたが、当然、怖がる方もいました。防御する方もいました。近寄らなくなる方もいました。

 

 

 

でも、当時の私は、スピリチュアルにも、品性があること、エレガンスが必要だとまだ知らなかったのです。

 

 

 

でも、その頃

聖なる母性が、私の中心からキラキラと美しく光のレースを広げるように、優しさを教えてくださったのです。

 

 

 

やさしくやさしく、あたたかい響きで、私の霊的な幼さを育ててくださいました。

 

 

にこにこと優しく

「あなたは、何がしたいのですか?

力の証明ですか?」

 

 

私「いいえ、私は優しさを伝えたいし、愛を伝えたいです。」

 

 

すると、にこにこと空気全体で微笑むように、聖母は教えてくれました、

 

 

 

「それでは、エレガンスを学ぶのですよ。

 

 

人には、プライバシーというものがあり、どんな人もさわられたくない、入ってほしくない自分だけのスペースが、心にあるものです。

 

 

 

それをお守りしてさしあげることも、あなたのお仕事なのですよ。」

 

 

 

「求められていないのに、相手の情報を見ることは、覗き見しているのと同じで、磨きあげられた美しい品性をもつ魂はそれをなさいません。

 

 

 

高い品性をもつ魂は、愛を学び、相手のプライバシーを尊び、境界線を大切に重んじます。」

 

 

 

 

 

それをきいて、私は目が覚めたようになり、はじめて、霊感にも次元があると知ったのです。

 

 

 

人にはプライバシーがあり、その人だけの世界がある。

 

 

その心のスベースを尊び、あたたかい敬意をはらうことは、

 

 

そのスペースで、魂が成長できるのです。

愛が拡がるのです。

 

 

 

以来、私は自分の感性のスイッチを 上手にオン、オフすることができるようになり、求められた時は、拝見しますが、普段は(必要があってお見せいただくもの以外は)そっと、スイッチをオフにし、

相手さまの心のスペースを、尊ぶようにしています。

 

相手さまの心のスベースを大事にして尊ぶと、不思議です。

 

 

愛が育ち、信頼が育ち、成長してゆくのです。魂には、成長するスペースがいるのですね。

 

 

 

 

 

 

境界線をやさしさでつつむ

 

 

この頃の懐かしい思い出を思い出したのは、安曇野で境界を守る神様を学んだ時でした。

 

 

 

安曇野で感じたのです。

地球の波動をあげ、愛の方向に向かうために、必要なこと。

 

 

それは、離れて分離したものを、もう一度ワンネスに戻してゆく為には、「分離」とは違う、「境界線」を尊ぶあたたかい学びが必要で あるのだと。

 

 

これは、分離ではなく、相手のエネルギーを愛し、信じ、真にひとつに戻ってゆく霊的な成長を助けます。

 

 

 

安曇野で仲睦まじい道祖神様が、教えてくれたそれは、愛のメッセージでした。

 

 

 

愛と執着は別なもの。互いに尊みあうやさしさから、幸福は始まる。

 

 

例えば、親子、夫婦間に多いのは、一見仲がよいのだけれど、依存と依存、我と我、恐れと恐れが、交差して、からまっている時があります。

 

 

 

特に親子間、夫婦間に多いのは、無意識に相手を 自分の所有物だと受け止めてしまい、

家族だから、親しいからと、相手のスペースに土足でふみこんでしまうことがあります。

 

 

例えば、相手の許可なく勝手にバックの中を見る、携帯を見る、部屋の引き出しをみる、など、相手のプライバシーに無断で入る。

 

 

相手の好きなもの、わくわくするものを、親しいがゆえにバカにする、それのどこがいいの?等。

 

例えば、子供達が野球をやっている。しかし お母さんは野球ぜんぜん興味がないとしても、また野球なの?そんなことばっかりやって!と

相手が一生懸命エネルギーを注いでいるものに、敬意をはらえない。

 

 

 

私達は時に錯覚します。愛ではないものを、愛だと思い込む体験。

 

なぜか、親しいがゆえ、愛があるんだから、私は黙ってご主人様の携帯をチェックしても、何をいっても、許されると錯覚してしまいます。当然の権利であるかのように。

 

 

けれど、この心の波動こそが、歪みを生み 望まないものを招き入れてしまうのです。

 

 

又、そばにいる人と、考え方が違うとわかると、なぜか、ムッとする。

同じ意見なはずよ、と、わからせようとしてしまう。

それぞれの固有の振動数、違う感じ方、違う考え方など、

「違い」という聖なる境界線を、尊べない・・。

「すべての人に、自分の世界がある」

それを認めて、相手の世界や、相手のプライバシーに 敬意をはらえない。

 

 

残念ながら、これは愛ではなくて執着なんですね。

 

 

こういう時に、オーラの放射に、歪みが生じ、波動がぶれて、隙間ができるので、愛以外のものを、呼び寄せてしまうのですね。

 

不安がとれた時に、奇蹟は始まります。

 

 

 

日本には。たたみのヘリをふまないという「結界」を尊ぶ、文化があります。

 

 

これは、その場のエネルギーを宇宙のまま 高く保てる知恵の文化です。

 

 

 

人には、自分だけのスペースがあること、そこを尊び、お守りしてあげる時、不思議とそこには安らぎが生まれ、自ずと信頼が生まれ、自ずと成長が育まれるのです。自然に調和が生まれてきます。

 

 

 

 

 

そして、違いという互いの結界に、敬意をはらい、違っても素晴らしいし、その人の心の自由なスペースを、尊んでゆくと、家庭には やさしい安らぎが生まれてくるんです。

 

家庭に、関係に、あたたかい調和が生まれてくるのです。

 

 

一見、離れているかのように見える境界線は、違いを尊むことで、私達は再び、深い魂の領域で、ふれあい、出会い直すことができるのです。

 

 

 

それは、ワンネスへの回帰。

 

日本の大地を美しく光輝かせて、甦らせる力となるのです。