あらわれれば消えるもの(6)
苦しい感情が消えて行くたびに、あなたの人生が開きだします。
私は、日々 たくさんのお人にお会いいたします。
それで、普段は隠れている内なる意識の世界にふれさせて頂くと、
いつも気づかせて頂く事が あるのです。
例えば、光に出会い
生き方を変える時、私達の口からよく出てくる言葉があります。
それは、例えば
「むずかしい」「なかなかできない」という言葉。
これは、かなりの確率で、真理に出会った私達がよく言ってしまう言葉ですね。
「愛に向かいたくて、いろいろやってるんだけど、なかなかうまくいきません」というのも、光に出会ったのち、よく出てしまう言葉ですね。
こんな気持ちは、私も経験がありますので、すごくよくわかるような気がいたします。
でも、例えば聖母のガイダンスが届けられてくる舞台裏などを拝見させて頂けるわたしの立場からは、実はちょっと深く研究したくなる魂のテーマを、自分自身の学びとしても気づかせて頂くことがあるのです。
例えば、人としてはとても優しい方がおられました。
その方は周りの人々の お役にもたっていて とてもステキな方だったのです。
けれど、周りは助かっていますが、ご本人は断れなくて本当は、とても困っていて、なんでも頼まれてしまう事を、とてもつらいと感じておられるようでした。
いろんな方に頼まれごとばかりされて、お人のお世話に翻弄され、自分の時間がなくなってしまい、それどころか、その方のご家族までまきこんでしまい、ご家族との時間もとれなくなっていたそうです。
それがとてもつらいから、こんな廻りとのお付き合いは、もうやめたいとその方はおっしゃっておりました。
しかし、家族といる時間のお休みにも、例えばあれを持ってきてほしいと彼女に連絡してきて頼む人や、仕事のシフトを交代してほしいというお仕事仲間の方からのお電話がひっきりなしに、連絡が入ります。
しばらくそんな感じで、100%の自分だけの休日を久しく味わっておらず、
次の休みこそ、休みたい、家族とすごしたいと、泣いている女性に聖母のガイダンスが届けられました。
『頼まれた時に気が重くなる頼まれ事は、本来あなたのお仕事ではないから、あたたかい言葉でありながらも、ノーときちんと告げること。』
というものでした。
ところが、日常に戻り、いざその場面がきた時、彼女は結局すべての依頼を、断れなかったのです。
彼女はいいました。
むずかしい、なかなかできない。
確かに気が重く、心にひっかかるのに、断れなかった、断るのはなんてむずかしいのでしょうと。
ノーと心をこめて伝えて、自尊心を大切に回復させるよりも、もめること、嫌われることが怖かったのでしょうね。
このような事ってよくありませんか?
わかってはいるけど、どうしてもできない。
よく、あることですね。
私は、こんなケースをたくさんたくさん拝見することがあります。
そして、もちろん自分でも経験してもいます。
だからこそ、ある時
私達人類がやりがちであるこの、
「むずかしい」「なかなかできない」という壁を越えてゆくには何が必要かしら?と、立ち止まってみました。
よーく感じて、分析してみようとしました。
何がむずかしいんだろうと。
そこで、はたっ!と気がつきました。
あら?
やるべき事だけをそのままフラットにしてみたら、
『行為』だけ見ると本当はぜんぜんむずかしくない。
むしろ、シンプルです。
いろんな人がむずかしい、できませんでした、と二の足をふむ内容は、よく見ると、本当はむずかしいことではありませんでした。
先の方だって、フラットに行為だけみれば、連絡がきた時にたった一言「その日は都合が悪いんです。ごめんなさい。」と言えばいいだけ。声を、だしさえすればいいのです。
その他の方々ができない事を、フラットに見てみました。
『できない事をすべてできないとお伝えする』
『1日たっぷり休む』
『一緒に食事したい人を誘う』
『家族にありがとういう』
『◯◯さんに優しくする』
『自分の心に素直になる』
『好きな服を着る』
『あこがれの人にプレゼントを選ぶ』
そして『スピリチュアルな事を好きという』などなど。
あなたが、思わず「むずかしい」「なかなかできない」「苦手」と口にする事は、なんですか?
その行為だけをフラットにしてみたら、実はそんなに難しくないのではありませんか?
私達がむずかしいと思わず口にすることは、本当は『行為』としては、いきなり空中で三回転しなさいとか、からだごと空中に浮きなさいというような、すごいことではなかったのです。
でも、できないのも、事実です。
そこで気づきました。
フラットにすると、シンブルで簡単なことなのに、それがこんなにも むずかしいのは、
そこに、実は『感情』がはさまっているからなんですね。
嫌われたらどうしようという恐れが心になければ、さっぱりと簡単に行動できます。
嫌われたくないから、気をつかって苦しくなりむずかしいのです。
家族に一言、ありがとうという。それだけのシンプルなことが、
『あの時こう言われたし、いつもこうされるし』という不満が心を占めていたり、ご家族との関わりによっては、素直になるとバカにされたり、おちょくられたりしてしまうから、それが嫌で、ありがとうを口にするのがむずかしい。
好きな服を着る、それだけのシンプルさなのに、
『まわりにどう思われるだろう』という事を気にし始めると、無難な服になってしまう。
よーく見ると、
ガイダンスなど、一段あがるチャレンジは、むずかしいことではないはずなんです。
だって、これらの行為を、なんなくできる方たちが世の中にはたくさんおられますものね。
1日たっぷり休むということでさえ、『仕事してないと不安だ、とかちゃんとしたおかあさんとはこれをしていなくちゃ』という思いがあるから、罪悪感で、休めない。
また、共働きで疲れていて、今日も家のお掃除ができなかった。朝、寝坊して子供達のお弁当が簡単なものになってしまった。
ただ、寝坊したごめんね~!という時、家族はもうなんとも思っていなかったりするのに、
その寝坊したという現象に、責任感や完璧主義や、日頃のご家族への罪悪感や、それを完璧にやり遂げている時だけ、自分には価値がある等、
自分の様々な思い込みや感情がからまっていると、「寝坊したことを許す」ということが、ことの他難しくなります。
とらわれるものがなければ、
「きゃー!寝坊しちゃった。パパ、子供達ごめんなさい~!ああ、失敗しちゃったな。明日からしっかり気を付けよう」
それで、次にいけます。
でも、罪悪感や無価値感など、自分の中にとらわれてしまう感情があると、
「どうして私ってこうなんだろう。なんてダメな私なんだろう」と、ずっとひきずってしまい、
さらっと学んで次に行くことが、とてもむずかしくなります。
大好きな憧れの方に、プレゼントをするという、本来は、幸せなはずの行為さえも、
「これ贈ったら、どう見られるだろう、どう思われるだろう」という感情がはさまれば、
金額や体裁を気にしはじめて、なかなかプレゼントは決まらず、へとへとに疲れたりもします。
結局は、むずかしいのは、
真理の実践をする時の、行為ではなく、
「感情」
なんですよね。
だから、私達の暮らしの中で、感情を解放する手段がわかれば、
私達の人生が前進するのが、らくになってゆきます。
さあ、明日はいよいよ 感情の解放の方法をお届けしますね。
苦しみが、罪悪感が、消えて行くと
ハートはくつろぎ、自由になって
人生がひとりでに光に向かい出すから、不思議です。