すべてが自分
すべては「私」の中で起きている事を教えてくれているのです
先日、街を歩いている時にこんな事がありました。
持ちなれないバックだったからか、はたまた、中に入っていた荷物の重さのバランスだったのか・・。
その日何故か、肩に下げていたバックが、何度も肩からずり落ちてしまうという事がありました(笑)
特にトピックにする必要もないような、細かすぎる日常の一コマです。
私は歩きながら、何度か肩にかけ直しながら いたのですが、何度目かに、くっと私が微かに不快感を覚えている事に気づきました。
バックが、私の肩から
「直しても直しても、くりかえしずり落ちてしまう感覚」を、私の胸は微かに不快に感じていたのです。
心のあたたかい場所から生きる、優しいいのちの生き方を知り、実践する前なら、私はこの微かな印象を流して次に行っていた事でしょう。
けれど、宇宙と調和する自分の位置から優しく生きる生き方を知った時から、私は自分の中に微かに響いたこの印象に必ず立ちどまるようになりました。
おそらく、よーく振り向かなければ、この不快感には気づかない程の小さく感じた波でしたから、普通は歩いていて、違うことをし始めたら、うやむやにしてしまう程の小さな心の音です。
この日常に起こることや、この世にある物質は、すべて、関わっている人のエネルギーを映し出してきます。
つまり、バックさんは、私の中で起きている波動を映し出し、気づかせてくれているのです。
この微かな不快感が、表の自分と神性の自分とのずれを修正しましょうと告げています。
この小さなほころびが、次の人生を生み出してゆくからです。
ですから、私は先程の微かな「不快感」が、私に教えてくれていた何かに、心を開いてみました。
起きていた事、バックを通して感じていた事は、実はそのまま、私の中で起きている事の「比喩」なのです。
私は、こう振り返ってみました。
「人生の中で、直しても直しても、何度もずり落ちて、くりかえしているものはなあに?」
そう自分に質問してみました。
バックを通して感じたフィーリングを元に、自分に起きている事や、自分の心の奥の奥をサーチしてみると、
心の奥にかすかに横たわっていた気持ちに、はっと気がつきました。
日常では、表に出ていなかった小さな痛みです。
それは、「思ったようにできないでいた、自分の部分を責めること」
そう、微かな自己卑下から無意識に生じていた、それはフィーリングでした。
人生は一生、優しい学びの連続です。どこまでも、成長し、広がれます。
新しい事にチャレンジしていたその時の自分は、うまくできないと感じていた自分の部分を、すでにやめていたはずの昔の古いやり方で、自分を責めていた事に気づきました。
何度やっても自己卑下をしてしまう自分に、無意識に内なる私は不快感を向けていたのです。
なんとも、ひさびさに感じたその感覚でした。
表面の自分は、外側の現実で忙しくて感じにくくなっていたけど、私の内側では無意識に自分に向けて「不快感」を微かに出していた・・。
それは、私の内側で、私の魂の癖の一つであった「自己卑下」する自分を、無意識に責めているものが、微かにあることを映してくれていたのです。
気づいた瞬間、ほっとしました。
無意識のカルマの残り香は、気づいて、意識化されるだけで、その瞬間スッとぬけるものです。
こうやって、私達は自由になってゆきます。
分析もいらないし、ましてや責めなくていいのです。
でも、私の内側の古い意識が、無意識にかつてのエネルギーに戻ってしまい自分を責めていたので、私は私自身の内側の、心の中だけでこう話しかけました。
自分の心の内側に、にこにこ微笑みかけてあげるようなあたたかいエネルギーを送りつつ、
「ごめんなさい。気づいてあげられなくて・・。自己卑下をどうしても感じてしまうのね。でも、今、気づいたから、もう自己卑下は消えて行くからね。そしてその自分に不快感を向ける事もやめるからね。」
そして、深呼吸しておしまい。
あっという間に、胸にあたたかいエネルギーが戻ってきて、私は満たされた充実した感覚を味わいました。
波動が変わったサインです。
すると、不思議。
もう、バックはずり落ちません(笑)
もう、私に気づかせたかったメッセージは、私が受けとったから、ずり落ちる必要がないですものね。
そして、黙っていても、優しい気持ちが、優しいエネルギーが深いところから湧いてきます。
そうやって、外を歩いている時に、いのちの世界から私の心をつたって溢れてくる宇宙の優しさの波に、
街の街路樹や、ブランターの中の花たちや、鳥や蝶々が、反応してきます。
私達のいのちの波はつながっていますから。
私達は、光を知る度に ネガティブな自分を嫌がってしまいます。
完全であろうとします。
でも、波動があがり、「愛」になるとは、一度も嫌な自分を感じなくなるとか、二度と不快感を味あわない事とは違います。
丁寧に、丁寧に、
自分にふりむいて、愛に戻してあげること。
自分の中の低次の周波数を、優しく救い続けること。
「優しくなる」とは、
一度も怒らないとか、嫌悪しなくなる事ではないと、私は思います。
その度に、自分を救えるあたたかな知性があるかどうか。
忍耐強く、自分と向き合う内なる成熟さがあるかどうか。
低次の自分を蔑み、まだこんな気持ちもあるのかと、落ち込む事もできます。
しかし、それは選択のすべてではありません。
気づいて、その自分を包み、手を離してあげて、自分を救い、成長することもできます。
細やかに、丁寧に、
自分の声に気づいてあげる。
それはきっと、人類全体と、宇宙へと続く、優しい扉なのですね。