新しい当たり前(4)
肌は受信機です。意識をひらくには、それまでの狭い意識を広い意識に拡大すること。その拡大スイッチが「体感」と肌の感覚です。
「昔、昔、浦島は~♪♪」で始まる懐かしい歌の世界では、浦島太郎が体験してきた美しい竜宮城を、「絵にもかけない美しさ」と、歌われます。
竜宮城は、この世を越えた世界です。この世に見本がないのです。だからこの世のどんなもので現そうと思っても、その「美しさ」は表現できません。
例えば、素晴らしい夕日に出会った時、私達は息をのみ感動する事ができます。
でも、その時味わった夕日の美しさを絵に描いても、そしてどんなに絵がうまくても、
おそらく、自分が味わった感動の全部は現す事はできないでしょう。
こんな感じではなかった。もっと美しかった、もっと鮮やかだったと、心震えた感動までは、キャンバスに描くことはできないでしょう。
山の頂上でおにぎりを食べる事はできるけど、
汗をかいて山を登り、やっと登りきった山の頂上で、皆でわいわい楽しく食べた とびきりおいしいおにぎりの味は、どんな料理家の方も再現できないでしょう。
心ゆさぶる感動は、絵にはかききれないでしょう。文字にも表し切れないと感じ、どれだけ文字にしようとしてもどれも薄く思えて、表しきれないと感じるでしょう。
絵にも表しきれない、文字にも表しきれない、それは、この世を越えた拡大した高い波動を垣間見、その感覚を味わっているからです。
とても表せない、言葉にできない、だけど感じることはできます。
言葉をこえ、この世の枠を越えている、広い高いものを受信するものが、「皮膚」です。
いのちを救われるような素敵な出会いや、共に汗を流した日々の尊さや、また大切な人を天国に送る時に、感じるあふれる思いは、とても言葉にできない、どんなに言葉を重ねても表しきれないでしょう。
でも、そのあふれる気持ちを、表しきれない大きなものは、心いっぱいで、体中で、感じとることができます。
その感覚の中に身をおいて、それを味わい、心と体で味わうと、
皮膚がさざめいて、反応します。
だから、感動して息を飲むときに、(すてきな意味で)鳥肌がたつ事がありますね。
そうやって、この世を越えた宇宙大に広いものを受信するのが、「肌」で、頭の理解を越えたものは、その場に身をおいて、その場の空気を肌で、体で受信することで、
内側の感性、理解力が広がってゆくのです。
言葉に表しきれない大切なものは、その場に体をおく事で、体で感じる事で、皮膚で受信する事で
自然に、自然に、やさしく
しかし、確実に意識が広がってゆく事で
この世を越えた美しい大きなものが、私達の中で目覚め、引き出されてゆくのです。
肌でその場の空気を受信すると、その受信した拡大した感覚にあわせて、
意識が広がってゆくのです。
例えその感動を絵には描けなくとも
竜宮城を体験する前と、竜宮城を体験した後とでは、おそらく浦島太郎さんの心から出てくる考え方や理解力は、変わっているのではないでしょうか?
それゆえ、目覚める時は、心はもちろん、体を、自分が望む世界に置く事が大切で、その世界の空気感を肌で感じてみる事です。
ですから、今の時期は会いたい人に実際に合いにいくことです。
行ってみたいと感じた場所に身をおいて、味わってみることです。
そして、心で感じたすてきな世界を実践してやってみる事です。
「見たい景色があったら、写真集じゃなくて、実際に見に行く。」「やりたい事があるならやってみる。」
その世界を体感してみます。
そうすれば、肌が、肌で感じる感覚が、あなたの中に具わるものを目覚めさせてくれます。
今までの常識を越えた巨大で美しい宇宙意識を理解できるよう、意識が拡大し、枠がはずれてゆくのです。
宇宙の時代がきています。
私達の中の宇宙意識が目覚める時代です。
しかし、「普通はこうでしょう」「普通はみんなそうするでしょう」という、今まで私達が使ってきた「当たり前な意識の枠」では、それを理解する事はできないです。
意識の枠、思い込みをはずすには、体感、肌でうける感覚が扉なのです。