泣く事ができる幸せ
『泣く』というのは、ヒーリングです~ハートチャクラを優しくやわらかくしてくれます
皆様、こんにちは。
この数日は、聖母の聖水の「光のしずく」の世界をお届けしておりますが、これらの記事を書いていて、ふと懐かしい私の体験が思い出されてきました。今日は、聖水シリーズこぼれ話として、「涙」に対する私のつたない経験話をわかちあわせて頂きますね。
チャネルがひらいた「魂の誕生日」を迎えてまだ数年たったばかりの初期の頃、突然私の人生が険しくなったと感じた時期がありました。
難しい問題ばかりが、一気に押し寄せて、問題がひとつずつ訪れるのではなく、2つも3つも4つも同時に目の前にやってくる、そんな感じです。
まるで、人生に嫌われているみたいに感じました。
でも、あの頃は、今世での真理の目覚め一年生(笑)
聖母からの真理の世界に目を見開き、感動して、その優しい生き方に憧れて、光の心から人生を見るように、力をいれて頑張っている時期でした。
聖母意識が教えてくれる、あの優しい生き方をしたい。
愛を学んでみたい、愛を軸にあたたかく生きてみたい。
でもまだ始めて間もないから、真理に向かう力加減がわからなくて、随分力が入っていたんですね。
「魂を磨いているんだから、つらいことがあったって当たり前」
「すべてに感謝しなければ!」
「まわりの人のよい所をみなければ!」
「人のせいにしない!人のせいにしない!」とまるで呪文みたいに唱えていましたっけ。
でも、不思議なもので、優しい生き方(真理)を頑張れば頑張る程、私は苦しくなってゆきました。
あれは、不思議なんです。
辛さを我慢して頑張ろうとすると、状況はもっとつらくなります。
これは学びなのだから、学ばなければ、やらなければ、こうするべき、こうあるべき。
真理を軸に自分を枠にはめると、状況は、その自分に気づかせようともっと輪をかけて、何かが違うと見せてくださいます。
当時の私は、怒りを感じても、我慢我慢。
ひどいと思うも、これは学び学び。
そして、かなり泣きたかったけれど、泣き言はいうまいと頑張る、意地っ張りな私(笑)
数々の悩みが一気に押し寄せて、ぴんっと張りつめて頑張っていた頃。
当時、一番私が苦しんでいたのは、人間関係でした。
強力に私を追い詰めると感じている方々が、目の前にいらしたのです。
今なら、なんてことのない事も、当時の私には 胃が痛くなるくらいの恐怖で、でも魂を磨いてるんだから、やらなければ、越えなければ、頑張らなければと。
恐れを感じている人々を聖母のように優しく許して、受けとめる態度をすれば、問題はほどけて解消すると思っていました。
だから、どんなものを投げ掛けられても、いいですよと受けとめていました。
しかし、いいんですよと受けとめられれば、すべてうまくいくと思っていたのに、状況はさらに悪化しました。いいですよとはいうけれど、頑張っているだけだから、内側は相当無理しているのです。だから、幸せな気持ちにはなっていない・・。
私は当てがはずれたように感じ、「愛に、向かっているのに、何故?」ととてもあせりました。
不思議なのは、この時期、私は宇宙の導きも、聖母波動も、まったく感じなくなっており、天に祈り、導きを求めても、天からは何も応えはなく、雪がふりつもる日のような沈黙。天のサイレントがそこにあるだけ。
ああ、いよいよ、私は天に見捨てられたんだと、さらに不安になり、その不安がまた私の心をかたくしました。
泣いちゃだめ、泣いちゃだめ。
泣かないで、頑張らなきゃ。
しかし、そうするごとに、さらに状況は悪化。優しい態度になるよう頑張れば、相手も優しくなると思っていたのに、優しくなるどころか、相手は、もっともっとひどい態度になりました。「どうして?」
泣いちゃだめ、泣いたらだめ。
我慢して私は道を探り続け、その間 、 天はサイレントのまま。目の前に導きらしいものも、気づきさえも何も生まれず、私はひたすら、我慢して、自分の気持ちを 光の方に無理やりねじ曲げるようにして、頑張っていました。
しかし、我慢というのは、必ず限界がきます。
我慢しても、我慢しても、
我慢すればするほど、我慢して頑張れば頑張る程、ひどくなる状況にとうとう私は堪えきれず、それまでしていた我慢がついに崩壊。
ある言葉を、ある方から投げかけられたのをきっかけに、とうとうそれまで、堪えていた涙が吹き出し始めました。
止めようと思っても、もう止まりませんでした。
その時、
天のサイレントが、雲間から光が射し込むようにひらきました。天上の優しい存在たちの会話が、私の内なる耳にふれたのです。
「ああ、よかった、ようやく泣けたわ」「よかった、これでつながるわね。」「ああ、よかった、安心したわ」
私は、「!!」
それは、私の背後で、私をいつも導いて下さっていた、霊的なガイドたちの声でした。
その瞬間、私は悟りました。
天がサイレントだったのは、導きがないかのように感じていたのは、天に突き放されていたのではなく、
私の気持ちが張りつめていたことで、私のオーラが固く閉鎖的になり、私の方が天をはじいていた事に。
堪えていた涙はもう、止まりませんでした。
涙があふれて、あふれて、私は子供みたいに泣いたのです。
でも、なんていうか
気持ちいい。気づいたあとの涙は。
泣きながら、私のハートが軽くなり、どんどんほっとしてゆきました。痛みが離れ、固さが離れ、無理する気持ちが涙とともに、離れてゆきました。
するとハートの奥からは、うるおすように、満ちあふれるように、聖母の優しい声が戻ってきました。
「涙は、聖水です。心につらさがあっても、素直に泣ければ、ハートチャクラはもみほぐされたようになって、魂はやわらかいままでいられるのですよ。愛は、そのやわらかさから始まるのです。」
私達はもともとが愛のエネルギーです。愛になるのではなくて、愛に戻るのです。私達の自然な姿が愛なのです。
この時の、にがい涙の経験から、私は大きな気づきをえました。
「私、魂の登り方を間違えていたんですね。」と。
「そう」とあたたかい微笑みで 頷いて下さるかのように 聖なる母性は私の中で、キラキラキラと美しいドレープを巻いて、優しく私のいのちを包んでくれました。
涙は、いのちを洗ってくれる。
いのちを素直にしてくれる。
いのちをやわらかくしてくれる。
素直に泣ける、幸せもあるんだと。
愛を学ぶ道、優しく生きる道は、足し算ではなくて、引き算です。
優しい生き方を選ぶ時、私達は「愛」を目指します。その時のスタート地点が、「私は愛じゃないから」と、愛ではない自分に、愛の態度を無理してつけたり、張り付けたり、背伸びをして、「自分にないもの」をプラスしていくのでは、ないんですね。
そうすると、私達にはかなりのストレスがかかるでしょう。
優しく思えていないのに、優しくしなければならないし、私は悪くないと思っているのに、許さなくてはならなくなるからです。
思えていないのに、頑張るしかない。その波動では、当然現実もほどける訳がありませんね。
私達はもともとが愛なんです。
その愛を覆って、光を隠しているものがあるだけなんですね。
だから、足し算ではなく、引き算なんです。「真理は愛なのだから、暗くなっちゃだめ」
「笑顔でいなくちゃならないんだ。」
「優しくつつまなくちゃ」
「平気でいなきゃ」「あたたかい言葉をかけなくちゃ」と、ないものを頑張って無理して 自分につけるのではなくて、
優しく思えない自分の思いや、思い込みの方を手放してゆくのです。
自分の光を覆っている、「できないという気持ち」や、「つらい気持ち」などを、引き算してゆきます。
愛も、優しさも、強さも、もともと私達の中にあふれているのですから、それを隠す自分の思いを解放、手放してゆけば、自ずと中から光の自分が溢れてくるのです。
こうしなくちゃだめ、こうするべき、とガチガチに固めて頑張るのではなく、我慢ではなく、
泣きたいなら、泣きたい気持ちを解放してあげるのです。
泣きたいときは素直に泣ける幸せもあります。
泣くということは、オーラを固めて知らず知らず 天の光をはじきとばしている自我を優しく流す解放なのですね。
私は頑張らなければと張りつめていたものが、涙が流れた途端にハートがほっとしたんです。
私の気持ちが張りつめていた時は、導きも、気づきさえもないかのように見えていたのに、
ほっとしてハートがやわらかくなった途端に、気づきがどんどん生まれ始め、心がふわりと楽になり始めました。
頑張って、力をいれて、優しくなるよう、許すよう頑張るのではなく、許せないという自分の気持ちを、いったん受けとめてあげることで、解放してあげるのです。
不思議でした。手放してゆくと、頑張らなくても、優しい気持ちが湧いてくるのです。無理してないのに、あたたかい気持ちが湧いてきます。
その自然な自分の波動を見つけると、不思議なもので、その波動はまわりに伝播してゆきます。
だから、現実も、ほどけ始めるのです。
ただ手放して行くと、私達のいのちの優しさは自ずとあたたかく回復してゆきます。
内側からやわらかく、光がでてきて、天の守護とつながるのです。
愛のある自分は、高みにいる なかなかなれない理想の自分、ではなく、本当はナチュラルな自然な自分なのですね。
涙は、そんな「自然体」に自分を戻してくれる、優しい授かり物なんですね。
自分を救う 優しい涙、流してくださいね。前に進むあたたかい涙を。