委ねると流される
私達の内なるフィーリングは、あなたを導く愛の声。自分がどこに向かうべきか、道を示してくれる真実の自分の声なのです。
悩みがあり、それをどうするべきか、何を撰べばいいか、どちらを選択すればいいか、わからない時があります。迷うときがあります。
でも、本当は迷っているのは私達の頭の方で、
私達のハートは迷ってはいないのです。
時々、自分の言葉にはっと気づく事があります。
ついつい出てしまって、一人反省会をしてしまうワードがあります。それは・・。
「なんでもいいよ」という言葉。
親しい友人たちや身内と話している時などに、頻繁ではないけれど
たまにポロリとこぼれる言葉。
「どこで食事する?」
「どこでもいいよ?」
「何食べたい?」
「なんでもいいよ」
みんなの好きなものに合わせるよという意味でこぼれるのですが、
一見、相手を尊重するようでいて、
実は自分のエネルギーを使わずに、放棄している言葉。
とってももったいない。
実はこの言葉、
内なるガイダンスがあらわれる心の「直感」を眠らせてしまい、錆びさせてしまう言葉なのです。
なぜなら、そうやって言葉にして
流れてくる現実に「ああ、ちょっと違う気がする」とか
「あちらがよかったな」と思う気持ちが私の中に実はあったことに気づくからです。
なんでもいい訳がありません、
だって、私達一人ひとりの、内なる感覚はいつも、フィーリングを通して 道を示してくれているからなのです。
すべてのものに波動があり、
人生のどんな小さな事でも、すべての体験には意味があります。
でかけた先で、家族に何をおみやげに買う?という事や
その日その時間、どこで誰と何をするかや
そこに自分がいるかいないか、誰がいて 誰がいないか
それにより、エネルギーは変わり、
それにより、運ばれてくる現実は変わり、
「気づき」が変わり、
受けとるものが変わってしまいます。
すべてに意味があるからです。
私の人生なのに、そこに私自身のエネルギーを参加させていない事は、運命に流されてしまう生き方の始まりです。
こんなあり方は、例えばタクシーに乗って、「どちらまで?」と聞かれて
「どこでもいいです。」と、応えるようなもの。
どこでもいいと言われて走りだすタクシーの行方に「ああ、私が来たかったのはこちらじゃなかったのに」と気づくようなもの。
こんな違和感に気づく時、
人生にはより偉大なものに自分を委ねる生き方と、運命に流されてしまう生き方がある事に、改めて気づかせて頂く事があります。
起こるべき事が起こり
なるべくようになっている、
自分を導く、より大きな流れに委ねる生き方と
力を委ねることと、人生に流されることは、違うものです。
何故なら、魂はいつもいつも、瞬間瞬間自分自身を『感覚(フィーリング)』を通して導いているものだからです。
人生には目的があるから、魂にとっては「なんでもいい事」なんてあるはずがありません。
それでも ついつい出てしまいやすいのは、「今日は何食べたい?」ってお人から聞かれると、やっぱり
「なんでもいいよ」とうっかり出てしまいます(笑)
でも、何を食べたい?何を飲みたいってささやかなな他愛もない事でさえ、
本当は 「あなたの気分」がありますよね。
いつもはコーヒーを頂くけど、
今日はカフェオレがいいとか。
今日は暑いから、今は冷たいジュースがいいとか。
その日、その時、その瞬間に、毎回自分に耳を傾けて、内なる自分の感覚を大事にしてあげられるなら、
ささやかでも、まずは自分の中に生まれているエネルギーを言葉にしてあげて、表に出してあげる事が大事なのです。
もちろん、言い方や伝え方はあるでしょう。
そこにあたたかみや思いやりを持つことは忘れたくありませんね。
でも、この「表現すること」、自分の感じている感覚を、表してみることは、創造の始まりであり
あなた自身が、そこに起こるべき天の采配に参加することであり、
本当のあなたが、あなたの人生の表舞台に 姿を現すことなのです。
例えば、その日関わっている数名の人がいたとしましょう。あなたを含めて、共に行動している誰かがいたとしたら、
そこには、全員が体験する自然な天の采配があるんですね。
その采配は、起こる場所、時間があり、そこで関わる人たちの真実の焦点がぴたりと重なる時に起こります。
なのに、関わる自分が自分の中に感じているものがあるにも関わらず、それを飲み込んで表さないと、
起こるべきことが起こる、
天の采配があらわれる焦点が微妙にずれはじめます。
つまり、起こるべきだったことが変わり始める、何も起こらなくなるわけです。
例えばお友達3人で、お食事するお店を選ぶなんてことが起こる時、
どこのお店になるか、それぞれ何を食べるかやお店で話すこと、起こることに対して生まれる気づきや、
その場所でふと見る景色や、経験に天の采配が静かに灯り、同じ経験が関わる人たち全員に、それぞれの意味をもち始めます。
その起こるべき事がおこる為には、あなたのエネルギーも参加していることが必要なのです。
参加しなければ、起こることが、起きないし、気づきもなくさらりと時だけが流れます。
しかし、あなたがあなたである時、、あなたをちゃんと表現し、人生にしっかりと存在し始めると、
人生を先に進めていく気づきや、不思議なシンクロにシティが起こりだすのです。
シンクロにシティとは「偶然の一致」という意味で、
あなたの心の中で感じていたことや感心を持っていたことを、周りの人が話題をだしてきたり、お店で同じことが起こったり、ふと見たポスターや、運ばれてきた食器の模様に、偶然の一見があらわれてきたりします。
ひとりが、気づく気づかないに関わらず、
私達一人ひとりの内側にはいつも、天の采配が流れています。(それが感覚です)
その内なる采配が、外に現れだす、それがシンクロにシティです。
シンクロにシティに気づきだすと それは、天の大きな「深い意味」の船に乗せていただいた事なのです。
自然に次の場所に運んでくれる、天の力です。
その瞬間、あなたがそこにいる意味があるのです。
例えば3人の人がそこにいるとしたら、あなたの意見が採用されるか、されないかは、意味がありません。
表現することが大事なんです。
つまり、委ねるか流されるかの違いはそこで、まずは自分の気持ちを現すことが大事。
例えば、「何たべたい?」と聞かれて、実は遠慮していえないでいた事があるなら、
「私はお蕎麦が食べたい気分だけど、みんなはどう?」「私はパスタに惹かれるけど、みんなの気分はどんな感じ?」など、
自分を表現しながら、そこで関わる人も同じように素直になりやすいように助けてゆくのです。
他の人の意見も、同じ重さで大事にできるやさしさを広げて、
皆の気持ちも、同時にそこに現れやすいよう声をかけてみませんか?
そうやってエネルギーを出していくのです。
その結果、みんなの多数決であなたの食べたいものにならなくても、
それがその日の恩恵で、
その体験が意味を為してきます。
起こるべきことが起きたのです。
あなたの行きたかったものと違っても、違うからこそ現れる恩恵があなたの為に生まれてきます。
だから、表現したら、あとは委ねると、その先に生まれる現実が意味を持っているのですね。
でも、あなたがあなたを表現せず飲み込んだら、エネルギーの出し惜しみをするので、
起きることが起きないし、
天の采配から離れるので、流されていきます。
望む現実から、少しずつずれてしまいます。
私達の中には、天の采配が流れています。
その優しいエネルギーが、現れる為には、あなたがあなたの中にある感覚に従って
それを調和を持って、表に表現する時、起こるべきことが起こるのです。
愛をもって、あなたの感覚を表にだしてあげてくださいね。
委ねると、流される。
流されるより、やさしく流れる事が大切です。